#115 日本のロックをメジャーにした男

現在も現役で活躍している日本ロック界のカリスマ矢沢永吉さんです。

自分はこの方の影響を受けて育ちました。

16歳の時に矢沢永吉激論集「成り上がり」という本を読み、考え方や音楽性、生き方に興味を持ちました。

矢沢さんは広島出身、生い立ちは極貧で矢沢さんが小さい時に母親が家を出て、父親は矢沢さんが

小学生低学年の時に原爆後遺症が原因で亡くなられました。

小学生低学年で両親がいなくなった矢沢さんは親戚中たらいまわしにされました。

そんなある日、矢沢さんのおばあちゃんが矢沢さんを引き取ってくれたようです。

高校卒業後、歌手を夢見て広島から夜行列車に乗り東京を目指しましたが、夜行列車に乗って

東京に行くのに当時、十数時間かかったため途中でケツが痛くなり横須賀で下車しました。

その後、横浜のキャバレーで箱バンドとして活躍し、キャロルというロックバンドで芸能界デビュー。

当時、爆発的な人気だったそうです。

3年後キャロル解散、ソロデビューをし活動します。

日本武道館公演は日本のロック歌手で初めてコンサートを矢沢さんが行い、現在まで日本武道館の

公演数は断トツのトップです。

矢沢さんは昔、テレビにほとんど出ませんでした。その当時はコンサートツアーを年間100本以上こなしていたようです。

当時から矢沢さんのファンは暴走族やヤンキーの不良層から人気が絶大でコンサート会場は暴走族の

集会場と化し、コンサート中にファン同士の喧嘩が頻繁に発生し、会場が貸出を拒否する会場拒否問題

が長い期間ありました。

大阪地区が一番会場拒否期間が長く、会場拒否が解けて久しぶりに大阪城ホールでコンサートした

模様がのちにビデオ化されています。

矢沢さんは30歳で当時、日本人ロックミュージシャンが無謀と言われた世界進出をしました。

その後、当時珍しかったライブCDを発売しました。

このCDは当時、怖くてコンサートに行けなかった方々のために作られたCDです。

長きの間、ブレずに音楽活動を継続している矢沢さんは素晴らしい限りです。

今では上記の過去はあまり知られていませんが、矢沢さんは苦労をしながらも現在まで頑張られています。

三興工業も順風満帆できたのではありません。

長年の間、色々な問題に直面してきました。そうした中、先人の方々から現在まで

会社を何度も立て直し、現在があります。

今ではすっかりその面影はありませんが三興工業が80年以上の間、会社が継続して経営できているのは

その時代その時代で懸命に頑張って来られた方々のおかげではないかと思います。